sub:螢雑想<3>毎日コン二重応募など 読売新聞等でご存知の方もあるかも知れませんが(^^;(^^; 「’94毎日写真コンテスト」で内閣総理大臣賞を獲得した 「ピカピカの一年生」だが、この作者は九年前にも同様の作品を 別のコンテストに応募し、入賞していたことが分かり、 規定に違反するとして失格となった。 この作品、実はプロの写真家が主催した撮影会で撮られたもので、 主催した写真家が入門書にも使用したのと全く同じ構図で撮られた ものであったとして、授賞が発表されてからから問題になっていたのだそうだ。 発売中の(1/27号)フライデーには、その3枚が並べられている。 被写体の男の子と女の子の表情や仕草に違いがあり、 また、フレーミングに若干の差異が認められるものの、 同じ場所で同じ時に撮られた演出写真ゆえ、ほとんど同じ写真と 言わざるを得ず。画面右上につるされた鳥カゴが妙に 物悲しさを誘う。 んと、ここで思うのは、類似応募を見抜けなかった主催の毎日新聞の 間抜けさとか、審査に当たった方々の眼力のなさとか、そんなことじゃない。 イイ写真はイイし、過去の写真コンテストの入賞作品を全てチェックする ことなど、不可能だろうから。 規定違反を承知で、いっぺん入選した写真のコマ違いを(それも他人が 設定した写真内容・構図そのままに)、別のコンテストに平気で応募する 人間の心根を知りたい。 単なる賞金稼ぎなのか。過去の入選がよほど嬉しかったのか。 「栄光よ、もう一度」との切ない願いからか。 受賞に対する「喜びのことば」につけられた顔写真が、ひどく 後ろめたいことをした人のそれに見えてきて、あまりにも悲しい。 だいたい、こんなに大騒ぎになってしまって、写真仲間に合わせる 顔がなかろうもん。そういう問題じゃないだろうけど。 もう少し、普遍的にとらえてみたいぞ。気分的に。 写真のオリジナリティの問題だな。これは。おそらく。 何のために人は写真コンテストに自分の撮った写真を出すのか。 自分の写真の「何」を人様に評価してもらいたいのか。 そもそも、自分の写真とは何なのか。人はなぜ、写真を撮るのか。 フォトジェニックな被写体(同義反復か)というのは確かにあって、 それを撮れば、なんかイイ写真が自分で撮れたような気になる。 奥日光の高原に立ってるあの有名な木もそうだろうし、 やたらにカメラを持ったオヤジが多い祭りとか、花が流行れば花ばっかり。 極論を承知で言えば富士山なんてその最たるものかも知れない。 最近では浜に打ち上げられた2隻のタンカーとか、あったね。 撮りやすいもの。評価が決まっているもの。 みんながイイというもの。それらしく見えるもの。みんなが撮ってるもの。 もちろん、おんなじものを撮ったってそのカメラマンの個性なり 特徴なりがでるでしょうけど、また、おんなじものを撮るからこそ、 腕の違いが出るってのも、ある意味で正しい。 ただね。特にアマチュアの人たちは、もっと自由に被写体を選ぶ ことがあってイイと思うな。自分の身近にある、誰も知らない すごく素敵な場所、その辺のジャリタレには負けない 自分のクラスのすごく素敵な女の子。なんかそういう、 新しさというか、自由さ、が欲しいよねぇ。すごくそう思う。 まだ世間の評価にさらされてない、自分しか知らないすごく 美しいもの(醜いものでもイイのよ)、をほかの人にも知らせてあげたい。 そういう純粋な思いと言うのは、写真する上で大切なことじゃないかなぁ。 そんなことを思いました。 ことばが足らないところもあるかも知れませんが、いじめないで下さい。 気が弱いもので。 それにつけ加えて、思うこと。 アサヒカメラの新年号の巻頭に、篠山紀信の「芸術写真」が載った。 結論を先に言うと、全然、面白くなかった。 (面白かった人、いますか?)←ちょっと大胆な質問、かな。 こないだ紹介させてもらった「眼の狩人」の中で大竹昭子さんも 書いてたと思うけど、篠山紀信という写真家は、今、自分が何を撮るべきか を常に考えている人だと思う(書いてなかったらごめんなさい)。 別の言い方をすると、何が今求められているか、もっと言うと、 いま、何が受けるか。売れるか。 その辺が透けて見えちゃうと、あざとい、と思えちゃうんだよねぇ。 雑誌なんかのモデルの少女たちのセミヌードを集めた「少女革命」(幻冬社)。 タイトルの付け方からして、相当に、あざとい。 私がウェットな「女の子写真」が好きだからかも知れないけど、 みんな可愛いけど、無機質なモデルっぽさ がすごく嫌だった。無理な笑顔はもっとヤだけど。 新潮社の「フォト・ミュゼ」で出た「ヘア」も、嫌だなぁ。 自分で(ヘア解禁という)時代を切り開き、また一歩先へ行く、みたいな 自信が、嫌だなぁ。なんか、いやだなぁ。 このへん、理屈じゃない。だめ? 写真が「時代」というものを否応なしに背負うとすれば、 篠山紀信は頭でそれを考え、荒木経惟は無意識で(本能で)、なおかつ楽しんで やっちゃう、みたいな。 いつまででも眺めていたい写真がきっと「イイ写真」なのだと思う。 (誰かも言ってた)←すごい責任転嫁。 それっていうのは、撮った本人が(広い意味で、かつ、ホントの意味で) 楽しんで撮っていることが必要条件なのだろう。 篠山紀信は「芸術写真」を楽しんで撮っただろうか。 どうでしょ。わからん。 以上です。 luciole(小倉雄一) /post